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6/30モーニングセミナーの様子
 おはようございます! 今日も暑いですね太陽 午後からは雨になるようですが、

湿度のある暑さ、皆様も体調崩されませんようご自愛ください四葉

 それでは、超大作!!! 先週のモーニングセミナーの様子ですlove

最近、ハリーポッターや不思議の国のアリスをテレビで見たせいか物語の様に読んでしまいましたぎょ

6月30日  M・S

★竹田市倫理法人会 甲斐昇一郎会長挨拶

今朝の栞輪読は第4条の【万象我師】だった。解説本には・・・“「人は鏡」とは、一言で
言いますと、「人の非に対して先ず自分を改めよ」「人を改めさせようとする前に先ず
己を改めよ」ということであり、「万象わが師」とは「あらゆるものが、よいことを教えて
くれている」ということです。もう一歩つっこんで、人が自分に対して何かおもしろからぬ
ことをしたとき、自分がそれと同じようなおもしろからぬことをしたのではないかと反省
をして、人を責めたりせずに、自分の心や行為が、そのまま他人に鏡のように反映
するものであることを知って、そして自分を改めよ・・・という意味“と書かれている。
 栞P41には、『作物も、家畜も・・・・』とあるが、ここに『自分の事業や夫婦、親子も、
わが心の生活をかえれば、その通りに変わってゆく』という言葉になる。過去と他人
は変えられないが、変えられるのは自分と未来という言葉もある。この倫理の学びを
そのまま実践していくことで心が変わり、習慣が変わり、また人生が、事業が変わって
いくのだと思う。
 今週、わが社の事業ではシンガポールへの卵輸出の初荷式を行った。農場ライセ
ンスを取るのに2年、販売ライセンスを取るのに1年と準備期間は長かった。父親で
ある社長が進めてきたが、こうして形としてつくり上げたことに、父親ではあるが、
すごいと思う。初荷式というイベントで社員の気持ちが一つになっていくことを直に
感じた。企業経営の中で、例えば周年行事などのイベントをやっていくことも発展の
ステップではないか。あと一つ父に教えられたことは『即行』だ。受けたときにすぐ
決める。直ぐに実行する。結果はあとからついてくる。・・・・・ことを改めて学んだ。

★サプライズ     『甲斐昇一郎会長誕生日プレゼント』

会員有志より、『事務長、専任幹事、会長と歴任され、また毎週素晴らしい会長挨拶
を聞かせていただけるのは、偏に奥様のお陰だと思います。会員有志で奥様への
プレゼントを用意したのでお渡しください・・・・・・・・・』

★会員スピーチ  『今、伝えたい事』  (株)和らびTFC  代表取締役 池見 傑

初めての方もいらっしゃると思いますので、先ずは自己紹介をさせて下さい。
わたしは株式会社和らびTFCの池見と申します。久住、竹田で飲食店を3店舗と久住
に食品加工場を経営しています。生まれは久住町本町で生粋の久住ッ子です。 
保育園、小学校、中学校と久住で育ち竹田高校に進学しました。特別にすぐれたもの
はなく、柔道部の傍らコーラス部のヘルプをしたり、素敵な先輩がいるといわれて
科学部に顔を出したり、どちらかと言うと勉強以外に精を出していました。

高校卒業後は大阪の調理師学校へ行き、住み込みでアルバイトをしながら学校に通う
生活でした。世間的には苦学生の様に思われるかも知れませんが、ちゃんとした寮が
あって同年代の料理人を目指す仲間が20人くらいいて、将来の夢を語り合いながら
学校の友達よりもアルバイトの仲間と過ごしました。

そんな仲間の一人から東京行きを勧められ、東京のフランス料理店に就職しました。
これでもかと言うくらい毎日怒鳴られながら3年程がんばっていた時、私の居た店舗の
チーフが独立する為にやめることになり、そのお店を任されることになりました。
そこからが大変で、まだまだ料理人としてはやっと一通りの事を覚えたくらいで技術も
経験も全然足りてなかったその時の私は、毎日12時くらいに仕事が終わると料理の
本とにらめっこして、翌日のメニューを決め、それをフランス語に訳してメニューを書き、
そこから材料を書き出して、必要な量を魚屋、肉屋、八百屋に朝までに注文をする。
毎日3時か4時に寝て9時には起きて仕事に行く。しかも週に1回は朝食があって6時
に起きるなんて生活を4年間しました。今なら即ブラック企業と叩かれるような職場
でした。
しかし今思えば、あの経験が自分の基礎を作ってくれたと思っています。

そんな時に、仕事の関係で3カ月間アフリカのニジェール共和国に出向する事になり
ました。フランス料理をやっていたので、1度はパリに行きたいと思っていたし、アフリカ
の行きと帰りにパリに寄れると言われ喜んで出かけて行ったんです。
パリは想像以上に魅力がありました。食べ物がとってもおいしくてお店の雰囲気も
とても良かったんですが、私がショックを受けたのは機内食でバターを食べた時と
パリについて最初にホテルのカフェでクロワッサンを食べた時です。
日本のバターと風味がまるで違っていて、それまで当り前に思っていた物が基本から
違っていたことに戸惑いを隠せませんでした。それと日本と違ってフランスでは中学生
位から将来を考えていて、私が初めて行った3つ星のレストランにはギャルソンと呼ば
れるまだ子供たちが働いていた事に驚きました。

帰国後、偶然に知り合った方の紹介でアメリカへ渡ることになり3、4年のつもりが、
永住権を取るまでという目標を達成するのに、結局10年間アメリカで暮らしました。
詳しくは後ほどおはなししますが、実家の事情もあって日本へ平成10年に帰国しました。

しばらくあっちこっちで頼まれては働き、平成12年に地元のニーズに応えるべく実家
の目の前で居酒屋“和らび”を開店しました。
そして平成22年、道の駅たけたの善米食堂開店にともない株式会社和らびTFCと
なりました。食によってトータルに地域を創造して行くことをモットーに、25年には食品
加工場を旧久住町農協跡地に開設、27年には玉来地区のレストラン“歩”を“善米
食堂・歩”にリニューアルして開店。そして現在に至る訳です。

     アフリカ体験

そもそも今の自分を形作るうえですごく大事だったのは、先ほど軽く触れましたが、
25歳の時にアフリカに3カ月間行けた事。そしてアメリカで25歳から35歳までの10年
間を過ごした事がその後の生き方に大きく係わっていると思います。

私が初めて暮した外国のニジェール共和国はアフリカの西側にある国で、信じられ
ない事にニジェール川と言う大きな川がある国です。みなさんナイル川はご存じで
しょう?アフリカと言えば砂漠のイメージですが、驚いたことにめちゃくちゃ大きな川
があるんです。そんなことすら知らなかったのです。今はテロリストが多いので近寄
れないと思います。私が滞在したキャンプはサヘール地帯にありました。

サヘール地帯とはサハラ砂漠の周辺で砂漠化が進んでいる乾燥地帯のことです。
はっきり言って何にもない荒れ果てた岩山や今まさに砂漠化しようとしている果ての
見えない大地があり、四方に地平線が見えると言う所でした。
そこで何をしていたかと言うと地下資源の調査隊の随行料理人です。日本から送ら
れた食材と現地で調達する野菜やお肉(魚はありません)で朝、昼、晩、20人程の
メンバーの食事をつくるのです。

それまで6年程料理を仕事にしていましたが、基本毎日違う相手に1食ですから、
料理のレパートリーはそこまで求められません。ですが毎日3食、同じメンバーに
違ったメニューを限られた食材で作る。中には肉が嫌い、野菜が苦手と言う人もいて
メニューを考える事も大変ですが、電話1本で業者が材料を配達してくることなんて
ないので、週に一回100k離れた町のマルシェまで買い出しに行って、1週間分の
食材を調達する。しかもフランス語で値引き交渉をしないと無駄に高い物を買わ
される。
日本人の常識なんて通用しないし、ある物は限られているので、如何に安く良い物
を必要な量よりちょっと多めに買うか、東京では考えもしなかった事態に相談する
相手もなく、自分一人でいろいろ考えるしかありませんでした。

  スイッチが変わる

今、思えばあの時、今に繋がる考え方のスイッチが切り替わったのでしょう。無ければ
自分で作ろうと考えるようになりました。そこにある材料の使い方を変えてみたり、シス
テムを真剣に考えれば意外と面白い組み合わせや、使い方ができると思える様になったのです。

ある時一人の人がハンバーガーが食べたいと言ったんです。ちょっとマクドナルドまで
買いに行くとか、せめてパン屋さんにバンズを買いに行ってなんて言ってられないん
です。周りは見渡す限りの荒涼地帯です。しかたなく1から作ってみることにしました。
先ずはパンです。小麦粉とイーストを入れて生地を練り日中気温40℃の中で発酵させ
何とかパンが出来上がります。続いては中に入れるミートパテです。肉は痩せたアフ
リカのコブの有る牛の肉をミンチになるまでひたすら包丁で叩いてひき肉を作りタマ
ネギや塩コショウで味付けしてハンバーグを作ります。それらを組み合わせてやっと
ハンバーガーが出来上がります。なんと3時間もかかっていました。同じようにギョウザ
が食べたいと言われれば皮から作ったりしました。

味はともかくも、無い物をつくってみるという経験はとても自分の幅を広げてくれました。
それと一番に鍛えられたのが精神面でした。他に代わってくれる人がいない状況で、
ちょっとくらい体調が悪かろうが自分しかいないと言うのはかなりきつかったんです。
だから今でも体調管理はすごく考えます。
でも、なんと言っても脅かされたのは、そんな環境の中で生まれ、生活をしている現地
の人々でした。明るく笑う子供たちや、一日の大半を水汲みに費やす女性たち。なんで
こんなところで? と言うのが正直な感想でしたが、彼らはそこ以外の環境を知らない
のですから、そこで生きていくしかない人間の強さを教えられました。
自分がいかに恵まれているかをつくづくと感じ、もっと自分に出来ることがあるのでは
と思う半面、もっと自分を成長させないといけないと切に思うようになりました。

   アメリカ生活

日本に帰りアメリカのフィラデルフィアの日本食レストランに誘われた時、これは自分
を成長させるチャンスだ! と思い直ぐにアメリカ行きを決めました。
ロサンゼルスやサンフランシスコ・ニューヨーク・シカゴくらいは知っていました。もち
ろん名前だけですけど、フィラデルフィアって何処?ッて感じで、ニューヨークの近くで
アメリカの京都みたいな街だと紹介された方から聞いていたのですが、良くは知り
ませんでした。取りあえず行って見れば何とかなるだろうと飛行機に乗りました。実際
はアメリカで5番目の都市で、みなさんも知ってると思いますが、映画のロッキーの舞台
になった街です。野口英世や大統領候補のトランプが通ったペンシルバニア大学が
ある落ち着いた古い街でした。

はじめのうち、英語は暮していれば自然に覚えるだろうと思っていました。しかも日本
食で寿司がメインなお店ですから、仕事も私生活も簡単に考えていたことに徐々に気
が付きはじめました。参考書を片手に勉強しました。しかし最初の1ヶ月くらいでこの
ままじゃとても話せるようにはならない、何か方法はないかと自分から探したり、日本
人留学生の子に尋ねたりして、先ずボランティアが運営する週2回の夜間スクールに
入りました。入ってびっくりです、何せ英語で英語を習うのですからついて行くのに
必死です。もう1つは日本人留学生の子のクラスメイトのネイティブな子を紹介しても
らい、週に1回一緒に外出してずっと英語で会話をするパートナーになって貰いました。
月謝の代わりに食事をおごると言うスタイルで、一緒に映画に行ったりドライブしたり
しながら会話をするという感じで、表向きは外人の女の子とデートするみたいで楽
しいのですが、頭の中はいつも必死でした。

1年目・2年目となかなか会話力が身に付かず、白人のウエイトレスからばかにされ
るたびに落ち込んでいました。3年目くらいからは自然に英語が話せる様になって
きて仕事も一人前に寿司屋らしくなりました。そのころから少し自信が出てきて店舗
を任されるようになり自分らしさをだせる環境が整ってきました。社長との契約で
週の売上目標を決め、それを超えると$50のボーナスが貰えるようにして、月に
最大$200のボーナスを獲得するために、いろいろと工夫をするようになりました。
実際一年間ボーナスを貰い続けました。

5年目からは3店舗の総チーフになり、部下はアルバイトを入れて40人を超えるよう
になりました。その当時はアメリカに来たがる日本人の子が結構いて、仕事よりも
ただアメリカに来たいだけで来た日本人の新入社員の子たちの面倒をよく見てい
ました。
なかなか仕事に身の入らない社員を会社はやめさせようとするのですが、何とか目標
を見つけさせ、アメリカで暮らせるようにする為に、一人一人の特性を見つけそれを
伸ばす工夫をしたり、それぞれがアメリカで将来何がしたいのかを聞いてどうすれば
それに近付けるのか、先ずはアメリカできちんと生きて行く為に何が必要なのか等、
会社が出来ない一人一人と向き合って彼らの人生を一緒に考えるのが私の専門分野
になっていきました。今思えばいわゆる人材育成です。

そうやってそれぞれの利益が会社の利益に繋がる方法を考えていたので、その頃たく
さんの本を読んだり,他の日本料理店の先輩達と話をすることで多くの繋がりもできま
した。私が日本に帰ってきてから何度かアメリカや東京のお店からお誘いを頂けたのも、
自分の利益が会社や一緒に働く仲間の利益に繋がる様、自分なりに考えて努力して
いたからだと思っています。

  父親の影響

では、そもそも何でこのように頑張ってこれたのかと言えば、父親の影響が大きかった
と考えます。私の父はシベリアに抑留されて、3年間モスクワの近くまで行って働かされ
ていました。私が小学生のころいつも世界地図を広げて、「俺はこの辺りまで行った」
とモスクワのあたりを指さして言われていました。父がまだ18歳くらいの時で、若かった
からだと思いますが、楽しかった事の様に話してくれ、「いつかお前も外国に行って来い」
と言われていたのが私を海外に向かわせるきっかけだったと思えます。

高校卒業後、久住をでて大阪に行き、アルバイト先の寮に着いて荷物を開けると一枚
の厚紙が入っていました。そこには漢詩が書かれていました。僧 月性と言う人が
書いた、男児立志の詩と言われるものでした。
それは男児郷関を出にあたりと言う書き出しで、男児の所は私の名前になっていま
した、もし志をもってふるさとを出るのであれば、志が成らなければ帰って来るな。
お墓を作れる土地はどこにでもあるのだから、どこで死んでも構わないと言う内容で、
私は二男でもあったのでそれなりに仕事や、生き方を学ばないと帰る場所はない、
と親父に突き放された気持ちになりました。
このことは、私が次のステップを考える時にいつも自分に問いかける基準になった
のです。今の自分で良いのか、胸を張って故郷に帰れるのか、親父に対して対等
に居られるのかとそのつど問いかけてきました。

   “和らび”開店

そしていよいよその時が来ました。きっかけは突然の姉の死だったのですが、先ず
は両親の傍で暮らそうと考えました。
次に仕事ですが、取りあえず地元の高校の先輩から頼まれた仕事に就く予定になっ
ていました。実際は帰国直前に先輩から仕事が無くなったんでどうする?と聞かれ、
そのころ家の前にあった、潰れたラーメン屋でもやるのでご心配なくと言って帰国
しました。東京・アメリカと都会暮らしが長かったので先ずは田舎暮らしの感覚を呼び
覚まそうと1カ月間は家にいて、自分の部屋作りや家の仕事、自治会の仕事をやり、
時間があるときはひたすらテレビを見て日本の事情や話題を10年分詰め込みました。

その後1年ちょっと勤めをして、最初の予定通りラーメン屋を何とかしようと考え始め
ました。久住にどんなお店があれば皆が喜ぶんだろうと、いろんな人と話している時、
みんなタクシー代を払って竹田や長湯に飲みに行っていると聞きました。一回の
飲み代が1万円かかるので週1か月2しか飲みに行けない。専ら家飲みをしている。
女性が行けるお店が無いなどのコンセプトに繋がるヒントが見えてきました。

年齢、性別を超えるには居酒屋だろうと考え、その頃知り合った男女10人くらいの
メンバーで竹田・長湯・などの居酒屋を毎週のように飲み歩いては、それぞれの良い
所、良くないところを研究して回りました。
それと並行して店舗の改装もしていました。知り合いの土建屋さんや大工さん金物屋
さんに道具を借りて、父親と2人でやる。一つにはそれまでできなかった親孝行もしよう
と思ったので、父親に頼って一緒に作ることで、ただ一緒にいるより濃い時間を過ご
そうと思ったのです。商売を受け継ぐ方達にはなかなか理解されないでしょうが、親父
の得意な事を一緒にやることできっと喜んでもらえると考えたのです。とは言えプロ
ではないのでいろんな人に教えて貰って親父が出来ないところは、考えながら自分
でやりました。
最後はいろんな方が手伝ってくれてお店ができあがり、小ジャレタ名前を考えている
時に親父から、「久住でやるならわらびかぜんまいじゃ」の一言で決めました。
人が集まって和ができる店と言う事で和らびとしました。その後ぜんまいは善米食堂
という名前で親父との約束を果たす訳ですけど。

ここで大事だった事は、潰れたラーメン屋を、あってよかったと思われるお店にする事
でした。はっきりいって夜の久住で歩いている人なんてほとんどいない場所でわざわざ
お店をやろう、しかも居酒屋なんて普通は避けると思います。
でもあのアフリカの砂漠から見れば全然恵まれているんですよ。人の流れが無ければ
作ればいいんです。自分の為じゃなくその場を求めるであろう人たちの為にとことん
考えていけばできるはずなんです。しかも自分で手を汚して一生懸命やっていると最初
のうちは素人が何でそんな事やってんだろうでしたが、だんだんお店らしくなってくると
みんなが興味を持ってくれて、しかもそれが宣伝にもなってかなり効果がでてきたのです。
後になって考えると今流行りのリノベーションをしていました。和らびを自分の手で作っ
た事で、その後の店舗を立ち上げる時にも、大工さんやその他の業者さんにお願い
する時にイメージをはっきり伝えきれる様になりましたし、安くあげる方法やちょっと
した不具合は自分で修理する事もできるので、他の店舗さんの店の作りやリノベー
ションを表からも裏からもみれるようになり、違った視点から一軒のお店をみる目を
持てるようになりました。

そこからは自分の得意分野です。料理は問題ないのですが、先ず必要だったのは、
若い女性が安心して来れる為の仕掛けでした。居酒屋の飲み歩きに付き合ってもらっ
ていた若い女性メンバーに、時間があったら和らびのカウンターに座って貰って、毎回
新メニューの試食をしてもらったり、面白いお店のメニューを再現して食べてもらったり
して、そこに女性が一人で来ても安心できる場所創りをしたのです。それとみんなで
一緒にTシャツのデザインを考えたり、久住のお祭りにビアガーデンをしかけたりと、
日頃やった事ない事を皆で参加して楽しむようにしました。ビアガーデンの売り上げで
アメリカに行こうと目標を立て、その年に3人連れてアメリカツアーを実際にやっちゃい
ました。自分もですが人がワクワクできる事が大切なんだと思います。

おかげさまで、和らびを始めてもうちょっとで20年になります。
7月には和らびフェスをやります。これも和らびの若手メンバーや地元の若者に人を
楽しませる事を楽しむ人になって貰いたいと言う思いで今年で4回目になります。

8月には和太鼓TAOのフェスにも地元の飲食店の仲間たちと交代で出店する予定です。
ただお祭り騒ぎをやるというよりは、そこから次に繋がる人の繋がりと、それを楽しい
と思える人がたくさん出てくるともっと地域が楽しく元気になるのではないのでしょうか?
   
最後に・・・

先日ユーチューブで、一度竹田にも来た事がある。脳科学者の茂木健一郎さんの講演
をみました。驚いたことに茂木さんは1962年生まれで私と同じ年だったんです。これは
余談ですが、茂木さんが言うには脳科学的には脳の前頭葉を活性化させるためには
ドーパミンという物質を出さなければいけないらしいんです。どうすればドーパミンが
分泌されるのか、それには自分が無理だと思う事や今まで経験をしたことがないこと
をするとドーパミンが分泌されて脳の前頭葉が活性化するというのです。

たとえば子供は常にドーパミンがでているのだそうです、子供は毎日新しい食べ物や
初めての物に触れたりするので放っておいてもどんどんドーパミンが分泌されて、脳
が活性化していくというのです。ところが大人は普通に生活をしているとドーパミンを
出すこともなく暮らして行くので、自らドーパミンが分泌されるようにしないといけない
と言っていました。

自分に当てはめてみると、たとえば今日のこの体験です。今日の私はきっとドーパ
ミンがたくさんでていると思います。今までも知らないうちにきっと新しい事や、みんな
が難しいと思う事をやる時には沢山出ていたと思います。
ただ、毎日を挑戦しつづけるのは難しいことですから、ただ苦しむのではなく、苦しい
事を楽しんでやる、大変な事を楽しくできるためのしくみを考える。後は実践し続ける
事が大事だと思っています。

今後とも倫理法人会を通して繋がったここにいる皆様とも係り合いながら、ドーパミン
を出し続けて行けるように仕事や生活を楽しんで行ければと思っています。



最後に、今日この機会を頂きました皆様に心よりの感謝を申し上げます。また機会
がありましたらお話させていただけたら嬉しく思います
みなさま本日はご静聴ありがとうございました。




| 竹田市倫理法人会::モーニングセミナー | 10:27 AM | comments (1) | trackback (0) |
ほんとにすごい大作!!
感動しました😀
| たまご | EMAIL | URL | 2016/07/05 07:13 PM | 3hnZmq3M |











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